萌さんと初めて会ったのは、もう5年近く前のことになるだろうか。ここに来れば オーナーの宇治さんはもちろんのこと、ユニークな自分軸を持つ、愉しい方々との語らいや出会いが待っている場、そんなソンべカフェで定期的に開かれていた「対話」の時間を共にさせていただいた。20代の萌さんとは、当然のこと、世代は大きく違うけれど、そうしたことが全く気にならない貴重な存在。
対話する時間をご一緒するといつも思わぬ気づきをいただくことになる。そして、それは表面的に流れていくものではなく、今も私の深いところにしっかりと根を張っているのだ。今回のご出演は私にとっても意味深い再会となった。忘れかけていた感覚が沸々と。何か細胞がおもいだして喜んでいるよう。
この2年ほどはその対話の時間をご一緒する機会がなくなっていたが、その間に萌さんは主宰する「無名哲学」の活動を深め、広げ、続けている。最近では目耳にする機会も増えた「哲学対話」も、萌さんが始められた頃は広く一般にはまだ市民権を得ていなかったのではないかな。
「哲学する」ことの本質を堅苦しくなく、身近なところからその楽しい世界へと誘ってくださる。そう、「哲学する」。”do” 動詞としての、考え続けること=哲学する、という感覚を萌さんのファシリテーションによって愉しく体験する旅の時間のよう。
ファシリテーターの数だけ、「哲学対話」のかたちがあるとしたら、
萌さんが主宰する「無名哲学」は、萌さんならではのあり方がキラリと光る。意図して参加者を目的地にナビゲートしていくのではなく、その場、その時の流れ、気づき、偶発性を参加者と共に楽しみ、ご自身もまた新たに生まれる問いを大切にしながら進めていらっしゃる。そこには素直な疑問や思いを「安心」して委ねられる感覚があるのだ。
わからない、なぜ?を臆せずに口にできる、伝えることができる空気感。そして共にその問いを見つめ、時に立ち止まって考える。すると、その問いの中にある宝物が現れてくる。テンポも歩み方も違う、これまではなかったコミュニケーションを萌さんの「無名哲学」の取り組みが創造していく、そんなこれからがイメージされて、こちらまでワクワクする。
高野朋也さんからの質問のバトン、浅野さんにとって哲学とは?という問いに対するお答えにも萌さんのお人柄が現れていると感じた。
問い続け、考え続けることを楽しみながら、ひとつひとつ丁寧に。今の自分ができる、その限りを尽くす。
これからもそのあり方にふれ、共に冒険し、気づきをいただくことを思うと自然と心が躍るのです。